のぶが昨夜帰宅してしょんぼりしてた。。
どうしたのと聞くと、なんだか寂しいという。 同期のふたりが転職するんだという。 何年目?と聞くと、ぼくたちは入社4年目だよと。 ふたりは優秀なセールスにやっとなってきたところだそうです。 仲間が去って行く。 じぶんは特別、今の会社に不満は無いけれど、かれらはどうしても去るんだ。。 それぞれ、有名な会社に移る。 たぶん、かなり収入が上るでしょう。 でも、上位の会社でまた不満は起こらないのか? どんな仕事をどんなふうにすることがじぶんのしあわせなんでしょうか? それが分かっていて職を転ずるのであればいいのですが・・・ のぶは辛い時、じぶんの内観を表現してくる。 わたしに解決して欲しいのじゃないのです。 ぼくは寂しいんだ、悲しいんだ、悔しいんだ、と言って来くる。 男子はアサーティブにじぶんの内面を言う勇気をもてません。 虚栄心が「男のプライド」という形でそれを妨げる。 でも、のぶは女子並みにそういう表現をする。 かれはよくおのれと対話していて、 会社が気に入らないとか、上司がなってないという捕らえ方をしません。 なぜ、そういう感情がじぶんに湧いたのかの原因を理解しようとする。 会社にも上司にも制約や理由があって、じゃあ、その制約の中で生きて行くじぶんというものを見つめ続けます。 だから、簡単に「解決手段」には飛びつかない。 おそらく、かれにとって転職は今後あるかもしれないけれど、 助け合う職場、こころを言い合える仲間、制約があることを偽らない上司というものを何よりも大切にする。。 「働く」ためには、働く要素というものが先ずあって、それぞれにじぶんが何を期待しているのか、 そしてじぶんは他者を助けたいという気持ちがあって、 どれほどそれを実現できる環境なのかということを見つめます。 かれは、基本、今居る環境でどうしたらいいかしか考えないのです。 不満=転職とはならない。 手段ではなくて、目的をじぶんの中で対話するということは、相談すべき相手としてじぶんを頼りにしているということです。 そこに安易に世間基準を持ってはこない。 絶対の自己というものにかれは相談し、その答えにかしずくのでしょう。 たいがいは、仕方無いか・・・とか言ってます。 へらへらしている一見、草食系男子なのですが、おどろくほど腹が据わってる。 でも、時々、へこんだんだとか、いじけたんだとか言ってきて、 「ぼくはまだまだだなぁ~」とか言っている。 じぶんを内観し続ける。。 若かったわたしは入社6年目で転職しました。 ちょうど、かれが生まれた頃。 もう上司に我慢ならなかった。 嫌で嫌でどうしょうもなかったんです。 しかし、そんな直情なわたしをたまたま不況がもんでくれた。 2年間求人がぴたっと無かった。 すぐに転職したならきっとわたしは後悔していたと思います。 ただ上司が気に入らない、仕事の内容が嫌だでは早晩、再度転職となっていたと思います。 こころに焦りがあったのです。 毎週、転職雑誌を買って来ては眺めるのですが、まったく求人が無い・・・ どこに転じようが、どこでも通じる人材になろうって、そこの会社でがんばるしかなくなった。 辛くても他に行きようもないから、今いるそこでじぶんの力を鍛えるしかなかった。 もう、仕事がどんなに理不尽でも、上司がどんなに横暴でも、どんなに賃金が劣悪でも、それを言い訳に出来なくなったのです。 もう、転職するとは決めていたから。 どうせ、出て行く身です。 その環境をもう言い訳にはできないということです。 今後やって来る、どんなところ(環境)でも一流なひとと認められるようになろう、 この嫌な職場からでさえ、出てゆかないでくれとまで言わせる力を獲得しようということが目標になった。 2年間、覚悟をしてがんばったんです。。 そうして長かった準備期間がようやく終わり、それから長く務めることになる今の会社に移ったのでした。 二十歳のわたしは、苦しかったです。 好きなひとが出来た。 わたしはそのひとと一緒にずっといたかった。 けれど、わたしの我がかのじょの一部に反発を感じ、惹かれるけれど受け入れられないという部分があったのです。 そして、供に過ごすということがどういうことなのか、どうしたらいいのかが、わたしにはまるで分からなかった。 そうこうするうちに、失恋をしました。 猛烈に恋しい。けれど、もう終わりなのです。。 わたしは「彼女が居ない」寂しさにのたうち苦しみました。 数ヶ月の間、かのじょを求め、嫌い、憎みました。 そして、そんなふうに浸るじぶんをもうひとりのじぶんが見ていました。 彼女を好きでもなんでもなくて、ほんとはプライドを傷つけられたのが気に入らないんじゃないの?って、 悲劇のヒロイン並みに酔っていたいだけなんじゃないの?って。。 この苦しさが永遠に続くと思われました。 かのじょのことを忘れる日が来ることがあるんだろうか? いいや、一生忘れられるはずがないと思いました。 わたしは愛ということの意味も在り方も分からず、ただ内部から突き上げて来る激情に翻弄されました。 それは結局、「彼女が居る」という形式にばかり目がいっていた、執着の結果。 苦しい数年間でした。。 分かれてから、7年後、出会いが来ました。 しかし、それは激情ではなく、尊敬という形だったのです。 その飾らなさ、率直さ、優しさ、謙虚さ。驚きました。 お付き合いというより、結婚を申し込みました。 それは穏やかな暖かな心持だったのです。 わたし自身に無理がありませんでした。 何かを獲得しようとか、我が物にしようとか、認めさせようとかいう気持ちがまるで起こらなかった。 つがいで在りたいと自然に思えたのです。 強烈なセクシャリティを感じない分、そのひとの存在そのものを敬うことができたように思います。 ひとは手段を目的としてしまいやすいと思います。 彼女が欲しい、結婚したい、子を持ちたい。なぜ? いい学校に入りたい、いい会社に入りたい。なぜ? そしてそれに執着し自縛してゆく。 ひとはしあわせに成りたいという空想的なスローガンのもと、 それを達成しよう、獲得しようと強烈にドライブ(駆動)されるんですね。 いつの間にか、手段を目的に摩り替えたことが分からない。 とにかくしあわせになりたい、会社を変えたいと考える。。 なぜ?と胸(ハート)に聞かず、あたま(思考)だけに聞く。 そうすると自我のいいなりになる。。 人間機械と化してしまう。。 彼女を獲得していったいじぶんは何をしたいのかが二十歳のわたしには分からなかった。 ひとりは寂しいです。 おのれの安心のためだけに獲得したかったのでしょう。 ほんとに情け無いです。 申し訳無いのです。 彼女とは、おのれのこころの隙間を埋めるための手段でしかなかったのだと思います。 隙間はじぶんが育成史の中で醸造されてきたものだから、 それはひょっと目の前に現れた他者では埋めれないのです。 それは、その苦をおのれが受け入れ、じぶんの血肉で紡いで行くしかないもの。 だれも助けてはくれない、誰も埋めてはくれません。 そういう覚悟と勇気が必要だったじゃないかと思います。 でも、わたしはふんばれなかった。。 二十歳のわたしは、じぶんの強烈な情念の影にふたりのやがての危うさを感じていました。 その危うさとは、じぶんを見つめる力の無さだったのだと思います。 わたしのほんとうの存在(自己)が、情念に舞うおのれにアラームを出していた。 じぶんを見失っている、世の基準で自他を処理しようとしているって。。 でも、失敗しなければ、わたしは学べなかった、分からなかった。 わたしはその予感というか気配を振り払おうと、かえって一緒に居るという形態に執着してゆきました。 彼女とじぶんとの間を見守り、彼女の願いを聞くこともできたはずなのですがあまりに未熟だった。。 きっと、そのまま「うまくいって」いたら、わたしはもっと大きな失敗をしたかもしれないのです。 相手をこころから尊敬していたわけではないのです。 獲得したかのじょにもう興味が無くなる日が来るはずでした。 かのじょを獲得して安堵したいだけのじぶんが、かのじょやその子を尊敬しようもないのです。 浮気、離婚、こどもの反抗。。 そしてそれは仕事にも影をのばし、それはかのじょやわたしの健康にも及んだのかもしれません。 わたしがじぶんのこころと対話する勇気を持たなかったばかりに、そんな悲劇の連鎖が生成される。。 破局は辛いです。 でも、なんでも訳があり、合理性が貫く。。 大好きなニサルガダッタ・マハラジ。かれはこう言いました。 執着が勇気を破壊するのだ。 与える者にはいつも与える用意がある。 だが、受け取る者がいないのだ。 自由とは手放すことを意味している。 くどくてすみませんが、ひとは外部に基準を持ちたがります。 それでは、おのれのこころからの勇気は湧き上がりません。 いつも相手や組織や社会のせいにしてしまうでしょう。 人並みに結婚し、人並みに子を設け、人並みの会社に入り・・・・ しかし、この身はこれ1つ。 外の基準にこの身は満足できないのです。 やっぱりそれぞれのやどかりは、じぶんに合った殻をじぶんで探さなくてはならない。 今、あなたには不満があるかもしれません。 不満があるとは、そこには執着があるということです。 自己との十分な、率直な対話があったのか? みな、いい学校を出れば、良い会社に入ればしあわせになれると思ってる。 そうでないこの身だからしあわせでないという。 それではいつまでもしあわせになれない。 この身が可哀相です。 みな、彼女ができ、結婚し、子を設ければしあわせになれると思っている。 ほんとでしょうか? 手段はあなたの目的ではないのです。。 しわせとは、不仲な夫といようと、ひとり身であろうと、賃金の劣悪な不安定な仕事についていようと実現できるものだと思っています。 どんな環境や境遇にあっても、しあわせで在ろうとする勇気の話なのだと思います。 わたしという存在の人生の物語なのです。 あなたが就活、婚活、転職あるいは離婚活動をされているなら、ぜひに、こころの底に触って欲しいです。 じぶんがほんとうに望んでいることとは何かと。 なぜそう願うのかと繰り返し、底に降りて行くのです。 じぶんが穏やかで朗らかであるためには何をすべきかと。 答えは世間にはなく、あなたの胸の内にしかなく、 そしていつも胸は声無き声をあたなたに送り励ましています。 どうぞ、じぶんを信じれるよう努力してください。 じぶんを安堵させるよう務められんことを。 しあわせは外の他者がもたらすのでしょうか? いいえ、それは勇気の話。 勇気がふたたびあなたに湧きますことを。 P.S. かれ、大統領だった。ジョン・F・ケネディはこう言ったそうです。 あなたの国が何をしてくれるのかを問うのではなくて、 あなたが、国に何が出来るのかを問いかけてください。 勇気のある言葉だと思います。 手段ではなくほんとうのわたしの願いに目を向けるには知恵が助けてくれます。 それはじぶんが差し出すという他者へ向かう視座。 そして他者もがんばっているんだ、じぶんも生かされているんだという感謝。 どちらも胸の暖かみに沿うのですから。 それらをそっとそっと大事に育てていって欲しいのです。 ぺこっ。
by akiyakaitaiking
| 2016-03-17 13:24
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